聖母像の首

 平成二年の「聖母の騎士」八月号に、「浦上にて日々」というエッセイをのせました。その中で、「被爆した聖マリア像の首を、がれきの下から見つけ出してくれた兵士の名前を知りたいと思っている」と書いたのである。この一文を読んだ発見者が、さっそく名乗ってくださった。浦上の信徒たちが語り継いでくれることを願い、発見者の手紙をそのままここに記す次第である。
 祭器具類のいくつかは、アメリカの兵士が国へ持ち帰っているようだ。浦上教会の守護者である聖マリア像の一片が、浦上出身の神父によって掘り出されたのは幸運だった。野口神父様の意にそって復元すべきか、被爆のあかしとして保存すべきか、まだ迷っているところである。いずれにしても、今年中には結論を出すことになるだろう。野口神父様、どうもありがとうございました。

     川添神父様

 はじめてお便り差し上げる失礼を御ゆるし下さい。
 不肖、私、北海道トラピスト修道士・野口神父でございます。
 先日、聖母の騎士八月号に原爆で消失した聖母の御頭につきまして神父様の記事を拝読致しました。
 『外地から復員した直後、一兵士が天主堂のガレキの中から見つけ、五十三年頃、片岡先生に教会に返すよう依頼した。また、聖母像をガレキの下から見つけ出してくれた兵士の名前も知りたいと思っている』
 私はこの事に関して、神父様にお知らせしようか、どうか迷っていました。先日、松永司教様がトラピストにお見えになりましたので、相談してみました。川添神父様は私が直接御像に関係していることは御存じではないと思いますので、私のほうから神父様にお知らせしたほうがよいと思いますと、申されました。
 松永司教様は以前から私の事はよく知っておられました。
 私、浦上・石神町(山中)に生まれ、昭和四年、北海道トラピスト修道院に入会しました。十四年に司祭に叙階されました。私、十二、三歳の頃だったと思います。イタリアから聖母像が送られて、祭壇の上部、天井に安置されました。その美しさ、神々しさ、少年だった私の心に深い印象を与え、自然と心が引かれて行くのを感じていました。
 そうして修道院へ入会する時、聖母像の前に跪いて、聖母マリア様、私は遠い遠い北海道のトラピスト修道院へ参ります。もう此の聖堂でマリア様の御前でお祈りすることは二度とないと思います。然しどこに居ても私を守り、御助けくださいと、お別れの御祈りを致した事を、今日に至りても覚えております。
 昭和十八年四月、召集を受けて故郷・長崎へ帰りました。久留米連隊に入隊し、二十年正月に除隊となりました。同年四月に再び召集されて、今度は大村連隊に入隊するまで、その間、浦上教会で西田・玉屋神父様の手伝いをしていました。
そのときは祭壇も大きく立派に造りかえられていました。そしてマリア様の御像は祭壇の中央部に安置されていました。
 八月十五日終戦。十月頃除隊となり実家へ復員しました。
 そして私は北海道へ帰院せねばなりませんので、焼け倒れた聖堂から何か少しでも遺物か記念品を欲しくなり、教会へ探しに行きました。行って見ますと辺り一面大きなガレキの山で、どこから入ってよいのか全く見当がつきません。やっと祭壇の辺りや、西田・玉屋神父様方の告白場あたりを一時問半ほど探し廻りましたが、ガラス一片さえ見つける事ができませんでした。そして石の上に腰かけて、入会の時と同じ祈りを繰り返し、また新たに聖母に向かって、私はこれから再び北海道へ戻ります。何か一片でも尊い遺物でもと思い探し廻りました。しかし、十字架も、御身のあの美しい御像の姿も、全く見当たりません。他にどんな物でも結構ですからお恵みくださいと祈りました。
 暫く黙祷していました。目を開いて目前を見ますと、真っ黒に焼けこげた聖母の御顔が、悲しい、なつかしい目付きで私を眺めておられます。私は、「ああマリア様、やった、バイザイ」と叫びました。多分胴体のかけらもどこかにあったかも知れませんが、マリア様の御頭をしっかりと抱きしめておりましたので、その辺りの事は私の頭にありません。私は何とも言えない喜び、感謝が心の底からわき、無我夢中で一目散に家へ持ち帰りました。そして母と長兄に、「お母さん、尊い物を見つけてきましたよ」と言って見せました。それを見た母も感激したらしく、幼い息子に向かって言うように、「アラ・マァ、あんたこげん尊かもんば、どがんして見っけたとねー。マリア様の大きな御恵みばよー。修道院に持って行って、きばってお祈りせんばよー。」
 仙台の浦川司教様がトラピストを御訪問なさいました時、お目にかけていろいろ事情を説明しましたら、「あんた、最上の宝物を見つけましたねー。もしあんたが見つけていなかったなら、今頃行方不明になり、屑籠と一緒にどこかへ捨てられていたでしょう」と申されました。
 昭和五十年頃だったと思います。北海道新聞によって、私が保存していることが浦上信者、多くの方が知るようになり、評判になりました。こうなった以上、もともと浦上教会のものですから、私一人で保存しているのは教会に対して申し訳ないと思っていましたところ、丁度、原爆三十周年の行事が浦上教会で行われることになりまして、浦上立身聖職者方々に招待状が参りましたので、私もその中の一人として(当院長の許可を頂き)、聖母の御像をたずさえて行事に出席いたしました。そして片岡先生におあずけして都合のよい時に教会にお返しくださいとお願い致しました。
 お別れの時に聖母の騎士修道士・小崎登明様に写真を撮って頂きまして、今日も実物の写真と一緒にお祈りしています。
 神父様
 私は教会内に安置された時から何となく心引かれるのを感じ、修道院へ入会してからもよく思い出してはなつかしくお祈りしていました。マリア様は私をお忘れになりませんでした。私を守り、助け、そしてあの悲惨な状況の中において、貧しい私を信頼して、ご自分の頭だけでも私の腕の中に抱かせてくださいました。そして凡そ三十年間、私の個室の机上に安置して祈りました。今日でも始終、あの真っ黒に焼けこげた御姿が思い出され、ことにロザリオを唱える時は目前に浮かんでいます。
 神父様
 凡そ四十五年前のことです。その時の事を頭に浮かべ、下手な文章で説明しましたが、大体はおわかりになられたと思います。何卒、実現する可能性がございましたら、早めに元通り復元いたしまして頂きたいのです。祭壇の上に安置してください。聖母マリアも確かにそうお望みになっていられると思います。
 お互いにますます聖母信心が凡ての人々に実現しますように!
 浦上教会から毎月『神の家族』を送っていただいています。お礼申し上げます。

     川添神父様

                北海道トラピスト修道院
                   野口嘉右ェ門神父

『ふろしき賛歌』(聖母の騎士社一九九四年)川添猛著より抜粋

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